18.竹屋ソーザブロー・コスメ


              朝鮮人キリシタン 竹屋ソーザブロー・コスメについては、『日本切支丹宗門史』中巻(岩波文庫)に記載されている(82貢)。
    
             それによると、竹屋ソーザブロー・コスメは11歳の時に日本に連れて来られて、イエズス会の神父から洗礼を受けている。
    
             どこかの領主に仕え、後に家老になったようである。そして、よく仕えた功により、屋敷と知行を賜っている。
     
             彼は、相当な暮らしをし、ずっと修道者たちの宿主をしていた。つまり、修道者たちに宿を提供していた。
     
               竹屋ソーザブロー・コスメが捕まったことを知った彼の主人、すなわち、どこかの領主は、誠に立派なことであり、自分の

             家来が捕まったことを褒めたそうである。

              竹屋ソーザブロー・コスメが長崎奉行所の役人に捕らわれた場面について、『日本切支丹宗門史』(中巻)に次のとおり
    
             記載されている。(72~73貢、「第3章 1618年」)
    
    
                「 キリシタン達は、実によく用心していたが、裏切者が出て、方々の住居を告発し、また隠密が召捕を実行した。
    
                12月13日、聖ルシヤの祝日の真夜中、長崎は踏み込まれ、2隊の兵卒等によって襲われたもののようである。
    
                4人の修道者たちは、2箇所の家で捕らわれた。一方の家には、数個月前に着いて、言葉を勉強していた2人の
   
                ドミニコ会員アンゼロ・オルスッシと、ヨハネ・デ・サン・ドミニコの神父が二人いた。なお、彼等の宿主朝鮮人
    
                のコスメ・タケヤと、伝道士トマスとが投獄された。タケヤは家を取上げられ、トマスはナバレテ神父に従って
    
                大村におり、当時まだ殉教できずにいた。 」  
    
  
             2.『遥かなる高麗』より

               『遥かなる高麗』(近藤出版社 1988年)には、「福者 竹屋ソーザブロー・コスメ」というタイトルで紹介されて

             いる。ジョアン・ロドリゲス・ジランという人物が記録した書簡が、1620年1月20日にイエズス会総長あて発信さ
    
             れている。ジョアン・ロドリゲス・ジランは1610年代に日本から追放されたので、直接見て書いたものではなく、
    
             日本に潜伏している宣教師から報告を受けて記録したものと思われる。本文中に、「ソーザブロー・コスメ」と記載さ
    
             れているので、名前は「ソーザブロー」であったことがわかる。漢字に直すと、「惣三郎」であったと思われる。
    
    
               「 コスメは高麗生まれで、11才のときに日本に来て、13才でイエスス会の教会で洗礼を受けました。主人に愛と
    
                誠実の心で仕えたので、主人は住む家を与えて、この市に居住させました。霊の救いの問題に関心を持っていた
    
                ので、たびたび宣教師を自分の家に迎えました。昨年彼の家で2人のドミニコ会士が発見されたので、彼も捕らえ
        
                ら投獄され、そこで天使のような生活をしていました。彼は水・金・土曜日毎に断食と縄苦行を行いました。
    
                 絶えず祈っていて、霊的なことに関する書籍をよく読めるように、牢獄の中で読み方を学びました。話すことは
    
                常に天国のことであり、ずっと以前から悪口を言うことを避けていました。金・土曜日毎に断食を行い始めて10
    
                年以上になります。彼の使用人を注意深く導き、キリスト教の教議を教え、神の教えを守るよういつも勧めていま
    
                した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

                 他の2名の聖なる囚われ人、吉田ジョアンとソーザブロー・コスメも同じ方法・同じ勇気で答えて、これもまた
        
                死を申し渡されました。こうして5人は自分たちの幸せな運命を喜んで、殉教の場へ向かうことになりました。

                <裁判長・権六はそのとき彼らに、日本の習慣に従って盃、すなわち酒の杯を与え、自分も盃を手に取って彼らと
        
                別れました[・・・]。そこにいた人々の中には涙を流している者もいました。>
        
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       
                 この殉教は1619年11月18日・月曜日に、日本の国王、江戸の将軍の命令で、長崎においてその市の奉行・

                裁判長である長谷川権六の指揮のもとに行われました。」



                 上記書簡のうち、< >の部分は、『遥かなる高麗』の編著者が、他の資料から補足したものである。
      
                長崎奉行が処刑される者に別れの杯を与えたとは、ちょっと意外に思われる。キリシタンを厳しく弾圧した奉行で

                あっても、やはり生身の人間である。 
 
                 『遥かなる高麗』の編著者ホアン・ガルシア・ルイズメディナ氏は、ソーザブロー・コスメについて次のとおり書いている。

                   「 また、11月18日に長崎で、11才の子供の時に捕えられた捕虜が、炎の中で死んだ。生前、主人に対する彼の

                   忠誠は長崎の数軒の家を贈与されたことで報いられ、社会的には通常の身分を回復していた。彼は竹屋ソーザブローと

                   いう名で、宣教師の言葉や文字の教師であった。今日、彼は福者竹屋コスメの名で、聖人名簿に現れている。

                   彼の妻イネスと息子フランシスコは3年後に殉教している。1597年に殉教し、後に聖人に列せられた-日本人竹屋

                   コスメと奇しくも同名であるが、おそらくソーザブローは、受洗のときに、この聖人の姓名を採って命名したのではある

                   まいか。」 



                 もし、ホアン・ガルシア・ルイズメディナ氏の説が真実だとすると、日本人の竹屋コスメが1597年に殉教した後に

               竹屋ソーザブローが洗礼を受けたのであるから、その年は最も早くて日本人の竹屋コスメが殉教した1597年だとすると、

               竹屋ソーザブローは13才で受洗したので、彼はその2年前の1595年に日本に連れて来られたことになる。

                すると、その時11才だったので、彼が亡くなった時は、35才だということになる。しかし、実際は2,3才程度年齢は

               上だったのではなかろうか。40才まではいってなかったろうと思われる。

                そして、彼は同じ朝鮮人のイネスと結婚し、息子竹屋フランシスコが生まれたが、フランシスコは1622年に12才で処刑

               されたので、彼が生まれた1610年の時、父親の竹屋ソーザブローの年齢は26才~28才前後だったのではなかろうか。

                なお、日本人の竹屋コスメは1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂で処刑された。26聖人の一人である。

               朝鮮人の竹屋ソーザブロー・コスメは、1867年に聖人に次ぐ福者に列せられた。



                  参考文献

                      『日本切支丹宗門史』中巻  レオン・パジェス著  岩波文庫   1938年

                      『遥かなる高麗』  ホアン・ガルシア・ルイズメディナ著  近藤出版社 1988年

   
                                                   

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